高野長英 誕生の地
この頃の日本の政府に当たる江戸幕府は、特定の国以外との貿易を禁止する鎖国をしていました。その政策により、日本は医学、天文学、兵学、民主化など、多くの分野でヨーロッパやアメリカから遅れをとっていました。
高野長英は、日本の近代化や民衆のために、貿易を許されていた数少ない国の一つであるオランダの学問(蘭学)を学ぼうと考えました。17歳で江戸(現在の東京)に出てオランダ医学を、さらに貿易港の長崎出島に行き、オランダから派遣されたシーボルトの鳴滝(なるたき)塾で、蘭学を通して、医学、科学、歴史や政治などを学びました。飢饉に備えて、そばとじゃがいもの栽培を勧める本や、日本で初めて人の体の仕組み (生理学)などをテーマに書いています。
天保8(1837)年、江戸幕府は、日本人漂流民を救い来航したモリソン号を攻撃して追い払いました。長英は、夢の中の集会で見聞きしたことを書いたという「夢物語」の中で、追い払うのではなく、受け入れる必要性を書いたところ、幕府を批判したとして捕らえられ、終身刑になってしまいました。
弘化元(1844)年、火災に乗じて脱獄した後、数多くの門人や宇和島藩主らにかくまわれながら逃亡を続け、医療、天文学、兵学などの翻訳書も書きました。嘉永3(1850)年10月30日、ついに江戸の隠れ家で幕府の役人に襲われ、47歳で亡くなりました。その後、明治31(1898)年7月4日、人々や日本の将来のために努力した生前の功績が再評価され、明治天皇から「正四位(しょうしい)」という高い位を追贈され、長英の名誉は回復しました。
資料
高野長英

高野玄斎像
江戸幕府は鎖国(特定の国以外の通商禁止)政策を200年以続けていました。
その政策により、日本は医学、天文学、兵学、民主化など、多くの分野でヨーロッパやアメリカから遅れをとっていました。
このような時代背景の中、高野長英は水沢から向学心に燃えて江戸や長崎の地に至り、蘭学を修めました。
そして、日本の近代化や民衆のために、蘭学を生かし真理(正しい道理)を追い求めることを自分の使命としていました。
高野長英は、文化元(1804)年5月5日、水沢伊達家家臣 後藤惣助と水沢伊達家家臣 高野元端の娘美也の三男として、奥州市水沢吉小路で生まれた幕末の蘭学者です。
9歳の時、父惣助を亡くし、母美也の兄である高野玄斎の養子として高野家で育てられました。
17歳で江戸に出てオランダ医学を、さらに長崎に行きシーボルトの鳴滝塾で医学と蘭学を学んでいます。
その後江戸に戻り、大観堂という塾を開き医療と翻訳を行いながら、当時最新の学問であった蘭学の知識によって、庶民の要求に応える学問を続けました。
天保8(1837)年、幕府が日本人漂流民を伴い来航したモリソン号を打払うと、長英は「夢物語」を著して提言を行いますが、幕府を批判したとして終身刑に処されてしまいます。
弘化元(1844)年に火災に乗じて脱獄すると、数多くの門人や宇和島藩主らに守られながら日本各地を潜行し、医療、天文学、兵学などの著訳に力を注ぎました。
嘉永3(1850)年10月30日、江戸の隠れ家を幕府の役人に襲われた長英は47歳で最期を遂げます。
このように、長英は鎖国の中から世界に眼をひらいて日本の進むべき道を予見し、困難な現実の壁に直面しながらも、蘭学を生かして日本の近代化や民衆のために真理を追い求めた生涯でした。
その後、明治31(1898)年7月4日、明治天皇から高野長英は「正四位」を追贈され、長英の名誉は回復しました。







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